あなたは良い子でしたか?
周囲の期待に応えようと頑張ったきましたか?
題名の「正しい〜」と「間違った〜」に反応しましたか?
「〜として」という言葉をよく使いますか?
人は、自らの実体験ではないことを、あたかもそうであるように自分のものにできる稀有な能力を持っています。
いったん受け入れて、自分の標準としてしまうと滅多なことでは疑わなくなります。
標準と異質なものに出会うと警戒します。
ほんの少し考えてみてください
自分か他人かの差はあっても、いつの頃からか体を指図され、命令されたことを実行する機械のように見るようになっていませんか?
精神(あるいは心)を主として、身体を従として、2つに分けて捉えていませんか?
身体を自分の外に置いて、自分以外の他者に委ねてしまうことがありませんか?
誰かによって決められた、「正しい」さに叶う「しなければいけないこと」とそれに反する「してはいけないこと」を持っていますか?
与えられた「正しさ」を真っ白だった紙に書きこんで、書いたルールに基づいて自分を眺めるようになっていませんか?。
そして他者の評価の中で自分を見るようになっていませんか?
集団の中で上手に機能することが大事
集団の中で上手に機能することが、あなたの評価を高めました。
その手本を示せることが、さらに評価を良いものにしました。
自分と自分以外の者を他者として分けられるようになる頃から、自分の行いが常に与えられたルールからはみ出していないかを気にし始めるようになりました。
正しさを身に付けたあなたは、正しさをもとに、いつの間にか「良い」「悪い」も身に付けていました。
目に映るものを良い悪いで見ることができるようになりました。
さて、このような言い方をするとまるで「悪い」ことのように感じてしまいますが、そんなことはありません。
あなたやわたしが所属する世界の中では、必要なことだと思います。
ただ大事なことは、あなたがそのことに気づいているかどうか、です。
意図してそれを動きの中で使えているかどうかが大事だと思うのです。
生き方そのものに直結する捉え方だと思います。
あなたは体をどのように使ってきましたか?
「緊張しないでリラックスしましょう。」
どんなふうに受け止めましたか?
このように言われると、緊張は良くないもので、リラックスは良いものだと感じてしまいます。
そして感じたことを受け入れると、あなたも同じように表現するようになります。
あなたの周囲の人も同じ基準の中にいれば同じ表現をするでしょう。
それは、標準となって何かの評価に使われることもあります。
あなたがその場その場で感じていることよりも、標準が規範となります。
「良い」と評価されることを行いたいし、「悪い」と評価されることをしたくはないのです。
しかし、緊張とは心身の局部に力が入ることではなくて、心身が次の動きのために一つにまとまろうとする働きです。
ひとつにまとまることによって素早く動けるようになるし、反応することができます。
つまり、緊張は、必要に応じて自然と起こるものです。
だから良いも悪いもありません。
反対にリラックスとは、力が抜けていることではありません。
その時その場面で、必要なところに必要なだけの十分な力が入っていることを言います。
だから、「緊張しないでリラックスしましょう。」は、表現としておかしいのです。
「十分な緊張をしましょう。」
「必要な力を入れたリラックスをしましょう。」
もしこのように表現したら、受け止め方が変わりませんか?
あなたのその時の心身の状態の評価が変わりませんか?
即座に反応できる状態になりましたか?
改善しましたか?
あなたが今いるところはどこですか?
どうも頭は、過去や未来にいることが多いようです。
過去にあったあれやこれやを持ち出しては、お喋りをします。
そうかと思えば、未来のあんなことこんなことを言い出します。
頭の中のおしゃべりはとどまることを知りません。
このお喋りは、緊張を緊張以上のものにしたり、見たこともないリラックスを要求したりします。
どうやら、頭にとっての現実と体にとっての現実は違うことが多いようです。
頭が勝手な解釈で作り上げた現実は、体にとっては非現実で、体の動きにはそぐわないのです。
ローマの偉人が言ったように「人は自分の見たいものしか見ていない」のです。
そして、見ている範囲が世界の全てだとつい思ってしまうようです。
だけども自分の理解の外に広がる世界の方が遥かに広く大きいのです。
常に「今ここ」にいる体は、そのことをひしひしと感じているのでしょう。
でも頭は、過去に引きずられ、未来を小さく描いてしまうことがあるようです。
私たちのからだ
現代の人の多くが、自分のからだを多くのパーツの寄せ集めだと思っているようです。
様々な細かなパーツが寄り集まって部分を形成し、それらの部分が集まって全体を構成している、と思っている。
だから時として、部分を他者に差し出して、その扱いを任せてしまったりしてしまいます。
様々な部分を指し示す言葉はそれぞれにあるのですが、ひとつのまとまりある存在としてを一言で捉える言葉がない。
言葉としてないものは思考の中に現れません。
階層的に積み上げられた複雑な構造は、部分の寄せ集めからは想像もつかない働きをします。
部分で体を見ているうちは、階層的に積み上げられた、上位の構造の働きは出てきません。
見ようとしていないものは見えません。
見たいものしか見ません。
まとめ
環境をコントロールすることに躍起になって、自分のからだを置き去りにして、誰かに任せてしまったようです。
誰かが決めた正しさの中に置いて、それを安全で安心としてしまったのです。
さて、自分の体と「今ここ」で会話してください。
その声をよく聴いてください。
誰かが決めた正しさの眼鏡を外して、あなたの裸眼で見てください。
多様性の中でのあなたを見つけましょう。
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