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私たちは日常的に「痛み」を「体験」しています。

様々な痛みを生まれてから経験し、「痛み」を「解釈」します。

とてもおかしな言い方かもしれませんが、日常的にとても役立つ痛みもあれば、ただただ迷惑な痛みもあります。

何のためにあるのか分からなくなるような痛みさえもあります。

痛みはどこで起こっているものなのでしょうか?

痛みはなんのためにあるのでしょうか?

そもそも痛みとは何でしょうか?

私たちに馴染み深い「痛み」は、実のところよく分かっていないのです。

科学的にわかっていない端的な一つは、五感の内痛覚以外の感覚の脳の中枢ははっきりしていますが、痛覚のそれははっきりしていないのです。

今回はよく知ってるつもりの痛みについてです。

痛みの定義

さて先ずはその定義についてみてみましょう。

以下が1981年に国際疼痛学会(IASP)による定義です。

「組織の実質的あるいは潜在的な障害に伴う,あるいは,そのような障害を表す言葉で表現される不快な感覚あるいは情動体験と表され,“痛み”は主観的な感覚・感情であり,患者が痛いといえば痛みが存在すると考えられている.

難しい表現ですね。

前半は私たちの日常で経験する痛みについてですね。

刃物で傷つけたり、トゲが刺さったり、私たちの体が具体的に傷を負ったときのものです。

この痛みは本人にも他者にとっても分かりやすいです。

すぐになんとかしようと手段を講じます。

出血している部分を押さえて止血したり、刺さったトゲを抜いたりします。

ただ、潜在的となるとこれは本人にもその原因がわからないことが多いでしょう。

専門家による診断や分析によって痛みの原因が明らかになるものが多いと思います。

この痛みは本人は痛みを自覚しているものの原因が分からない内は、とても不安です。

また、他者には分からず理解してもらいにくいもです。

後半では、その本人が「痛い」といえば「痛み」があると言っています。

これは日常的な生活で痛みを常に持っている方以外は理解されにくいもので、本人にとってはとても辛い状況です。

“痛み”は主観的な感覚・感情」というところが大切ですね。

決して客観的なものではないのですね。

しかし、痛みに限らず当人の感覚を他者が理解すということは、そもそも難しいいことです。

痛みの役割

さて不快で辛い痛みですが、何のためにあるのでしょうか?

痛みの役割は何でしょうか?

痛みがなければ私たちはどうなるでしょうか?

自分の体が傷ついても分からず、怪我や火傷、体内の異常に気づくのが遅れます。

気づくのは遅れれば対処も遅れるため、事態は深刻になります。

実際に先天的に痛覚がない難病があり、ご病気の方は大変なご苦労をされています。

痛みは私たちの体を守るための警告信号です。

自分の体が発する警告信号を意図的に無視し続けると、自分だけでは対処できないような状況になってしまうこともあります。

先ほど引用した痛みの定義の中に、「不快な感覚あるいは情動体験と表され,“痛み”は主観的な感覚・感情であり」という部分がありました。

痛みの知覚は生命を保持するために必要なものです。

痛みを不快だと感じるからこそ、痛みから逃れる行動が生まれます。

「嫌だ」と感じているのです。

情動体験であり、感情なのです。

ここがややこしく難しいところです。

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痛みの種類

さて、身近なのに難しく、はっきりと分かっていない痛みですが、理解のための便宜上痛みは種類が分けられています。

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侵害受容性疼痛

身体をどこかにぶつけたりした時、その部位にある痛みの受容器(侵害受容器と言います)が痛みを感受すると、脊髄や脳へ痛みの信号を伝搬します。

これを侵害受容性疼痛と言います。

 

炎症性疼痛

ケガをしたり火傷をした時、その部位に炎症物質が放出され痛みを増強します。

これを炎症性疼痛と言います。

 

神経障害性疼痛

末梢の神経の障害のみならず脳や脊髄の神経の障害でも痛みは生じます。

この場合、時に難治なこともあります。

これを神経障害性疼痛といいます。

 

心因性疼痛

心理的な状態により影響を受け、神経や体そのものは傷害されていないのに感じる痛みを心因性疼痛と言います。

 

痛みを原因別に分類すると以上のように分けられています。

これらの痛みは単独に存在する場合もありますが、重なり合って痛みを生ずることもあります。

 

身体的な痛みの原因が分からない場合に、心理的な痛みと決めつける医療関係者も少なからずいます。

このような状況になると痛みを抱えた本人は理解者を得ることが難しく孤立してしまいます。

痛みとは?

痛みのパラドクスは、有益であると同時に有害であるということです。

先ほどの例のように何か怪我をしたら、そこに生ずる痛みは避けるべき何かがそこにあるか、対処すべき傷があるという信号です。

痛みが伝える情報は怪我の場所や何をすべきかを判断するために有益です。

しかし、悪性腫瘍を伝える痛みのように遅すぎる場合もあります。

起こった後で伝わる、脳卒中や心筋梗塞に伴う痛みもあります。(前もって警告的に発せられる信号を無視してしまったかもしれません。)

また何のためにあるのか分からない慢性的に続く痛みもあります。

慢性的な痛みは人を酷く憂鬱にさせ、心身を不安定にさせて、人生の喜びを減少させます。

また、五感の内痛覚を除く他の感覚は、大脳の皮質に特異的に反応する領域を持っているものの、痛覚はそのような領域がないこともパラドクスの一つです。

全ての感覚の内で最も耐え難いこの感覚が認知と感情の因子によって有効に抑制されることもまた一つのパラドクスです。

戦場で兵士が危険が去るまで痛みを感じないことがあったり、スポーツで試合が終わるまで怪我をしていることに気づかないことがあります。

これらのパラドクスを全て説明し得る痛みに関する説は、今のところないようです。

ではどうするか?

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原因のはっきりしているものについては、その除去が最優先です。

原因はわかっているけれども、原因を取り除くことが既に難しい場合は、様々な方法が様々な専門家によって主張されています。

西洋医学的には、薬物を服用することによる治療や神経ブロックによって痛みの伝わりをコントロールするもの。

またこれまでの対症療法的な治療への反省から、集学的アプローチも始まっています。

集学的アプローチとは、様々な領域の専門家が集まって治療の方針や計画を行うことです。

複数の治療法を組み合わせて行うこととの間違った認識もされてしまっているようですが、これは違います。

東洋医学では、鍼灸やマッサージなどによる対処。

カイロプラクティックによる治療。

また心理学的なアプローチもあります。

心身医学的な方法もあります。

それぞれの立場でそれぞれの有効性が謳われています。

近年では証拠に基づく医療が叫ばれ、何に関しても「エビデンス」が求められます。

科学的に正しさが立証された方法で治療することは、受ける側にとっても安心です。

問題は「科学的な正しさ」は常に統計的な数字で表現されるということです。

この科学的に正しい方法は、その有効な領域に自分が当てはまっているかどうかは実際にやってみなくては分からない、ということです。

科学的に立証されていない方法では、事態はさらに混沌とします。

しかし、科学的に立証されている方法でどうにもならなかった痛みが、科学的に立証されていない方法で治った、ということもあるようです。

それほどまでに分からない「痛み」。

痛みの理解は、人の進化を含んだとても大きな領域への知識が求められるようです。

今回は述べていませんが、進化論的医学の考え方が必要かもしれません。

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